歌言②
ゆっくりと、水滴のようなピアノの音が流れていく。赤い唇から静かに零れ出した淡い歌声。さざめいていたクラブの中が、一瞬の内に静まり返る。しっとりと、肌に添うような彼女の声。
傲慢な横顔もきつい視線も消え、彼女は切ない恋を広い空間に語りかける。
銀の盆を掲げて走り回っていたボーイ達は歩を止め、ホステス達も口を閉じて耳を傾ける。桂城も客席の一つに腰を降ろして、スポットライトを浴びる歌姫を見つめていた。
彼女に対する不満の声は、ステージを経るごとに聞かれなくなった。彼女の声がそれを黙らせたのだ。その歌は深い心の奥底にたまっていくような気がする。
重さは切なさに変わり、人々の瞳を閉じさせる。そんな優しい悲しい歌声だった。
拍手の中で彼女はここへ来て初めて満足そうな顔を見せた。それはとても可愛らしい笑顔だった。
「貴方はお目が高い」
狭い廊下で、篠宮は真面目な顔をして言った。
「お前に褒めてもらえるとは光栄だ。なかなかのもんだろう、あの歌姫は」
桂城はちょっと悪戯げな顔で笑った。瞳が優しい満足の瞳を見せている。
「ところで…今度の定休日には店を開けるのか?」
「忙しい時期ですので、そのつもりです。従業員には希望の日に休ませます」
「お前は?」
篠宮はちょっと困ったように笑った。
「ご心配には及びません」
「…心配だね。それを口実にして逃げられるってことが、な」
「…社長」
篠宮はマネージャーの顔をして、掴まれた腕を素早く外した。そして、人目のありそうな所で桂城に声をかけたことを後悔しながら踵を返した。
「社長はご自由になさって下さい。必要とあれば連絡いたします」
篠宮は出しかけた足をふと止めた。気配はすでに消えしまっていたけれど。
その夜のステージも好評のうちに終わった。彼女はステージから降りてくると、言葉を交わそうと
する客の間を擦り抜けて壁の近くに立っている篠宮の所にやって来た。そして強気の笑みを浮かべる。
「ハイ。壁の花さん。お酒いただいていい?」
篠宮は指を鳴らしてボーイを呼ぶと、お好きなものをと言った。
「ありがと」
オレンジ色のカクテルが二つ、銀の盆に乗ってやってくる。
「飲まないの?」
それを取らなかった篠宮に、彼女は不思議そうに聞く。
「仕事中ですので。では、失礼します」
離れようとした篠宮の腕を彼女が掴んだ。
「私の歌。どうだった?」
「…痛くなりましたよ。…ここが」
それが一番素直な感想だった。心臓の上に手を置いた篠宮に、彼女は満足そうな笑みを見せた。
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