TIGNE ROSE短編(小笠原×朝倉)
夕闇が迫っている。
コンクリートの岸壁に立ったまま煙草を咥えている朝倉の髪を、海風が揺らしている。小笠原は少し離れて海の方へ両足を投げ出し、その姿を見上げていた。
「俺を見るな」
冷たい声で朝倉にそう言われて、小笠原は視線を海に移した。都会の海は黒くうねっているものの表面的には穏やかで白い波がしらも見えない。落ちている陽の光が反射して少し眩しかった。
春が好きだという奴は多い。だが、好きではないという人間もそう珍しくないだろう。
息を潜めるようにして寒さに耐えるという目的を奪われて、生暖かい陽の光に晒されて途方に暮れる。
少なくとも、朝倉はそう言った。
意味もなく車を走らせて、ただ遠くへ遠くへ。帰る道も分からなくなるほど遠くへ行きたくなる。朝倉はそうも言った。そうすれば、帰るという目的をこの夜に持たせてやることができるから。
春が来るたびに、きっとそうやって朝倉は何がしかの答えを見つけるために宛てもなくさまよったのだろう。
小笠原は視線を上げたくなった。だが、迷う瞳を見られたくないというなら黙ってそうしているだけだ。
闇が濃くなってきた。春は酷な季節だ。今まで気ままに指先一つで身を暖めてくれた火を遠ざけて、自分の身で熱を燃やさなくてはならないことを思い出させる。そうしなければ暖まることはできない。だった独りだ。
「迷うことは悪くない」
朝倉の声がふいに聞こえた。それは独り言のように聞こえた。だがら、小笠原は答えずに黙っていた。
「少なくとも自分で選べる」
「独りで?」
「そう、独りでだ」
人間はいつも孤独でたった独りだと、いつか父親が子どもだった自分に教えたことを小笠原は思い出していた。そして、それは侵してはならない個人の領域だと。
小笠原は恋をして、初めてその意味を知った。そんな気がした。彼の恋人は孤独の色の濃い人だ。そう思った。
「帰ろう」
暗い海をまっすぐに見つめたまま朝倉が言った。小笠原は視線を上げた。相手の瞳が凪いでいるように見えた。彼は問うた。
「どこへ?」
「お前は?」
小笠原が帰りたいところは一つしかなかった。朝倉の部屋だ。小笠原が素直にそう答えると、朝倉が目を細めた。機嫌は良さそうだ。
細い体が一瞬、宙を飛び埠頭のコンクリートの上に降り立つ。小笠原は軽くジーパンを叩いてその背を追った。朝倉の白い車。小笠原のバイクはメットを被るのが煩わしいと嫌がったが、それが嘘だったことが今は分かる。二人乗りの伝わる肌の暖かさが邪魔だったのだろう。
小笠原が助手席に滑り込むと、車は緩やかにスタートした。中は沈黙が支配していた。
春も夏も秋も冬も関係なく、自分は独りで選んでしまっている。たぶん、朝倉も知っている。それが重荷にならなければいいと思う。
朝倉には孤独が必要だ。気持ちの澄みきった時間が、より熱を呼び力を生む。きっと意識しなくてもみな、人間はそうやって力を溜めるのだ。自分も。
「酒が欲しいな」
それもまた、朝倉に必要なものだ。男の人生なんてそんなものかもしれない。
運転を変わってもいいと小笠原が言うと、朝倉は少し笑った。まだ小笠原の運転を信用していないのかもしれない。
「帰って飲もう」
その横顔が穏やかな力を感じさせた。それが伝わってきて小笠原の力にもなる。小笠原が問うた。
「タイン・ローズ?」
朝倉はまた笑った。
「作れるのか?」
あなたのためだけに。小笠原は声に出さなかった。店にそんなメニューはない。
「聞いている」
朝倉は答えないことを嫌う。
「不味い、と言われることを覚悟すれば」
「上等だ、小笠原」
世界はもう暮れている。流れていく街の灯が色とりどりの光を見せている。見つめている小笠原の視線に朝倉は気がついている。
だが、見るなとはもう言わなかった。
END
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