歌言①
「冗談じゃないわ!」
満身の力を込めたのか、重いドアがいきなり乱暴に開かれた。気配を察して飛び退かなかったら、それは桂城の鼻面を直撃しただろう。
黒いドレスの裾を翻して足音も高く部屋に入ってきた彼女は、大声で言い放った。
「あのセンスの悪いスタッフたちを何とかして! 紫のライトなんて最悪だわ!」
部屋の奥で書類の整理を終えて立ち上がろうとしていた篠宮は、扉の方へ視線を向けて軽く笑む。
「どうされました? 八神さん」
落ちついたその声に、彼女は怒りをさらに募らせる。きつい女神のような目が篠宮を捕まえて文句を言うのを、桂城は片方の眉をちょっと上げて眺めている。
「…お話は伺いますから落ちついて…」
やんわりと手を上げた篠宮の視線の先で、桂城がドアを閉めて出ていく。
「篠宮。歌姫の事は任せたぞ」
彼女は一度だけ桂城の背を振り返った。そして、向き直るまでの一瞬が、篠宮の神経にかすかに噛みついた。
すっきりと切り揃えられた短い髪と勝気そうな大きな瞳。彼女の口調ははっきりとして切れが良かった。
「一ヵ月間、この店で歌うことになったの。ブルースとジャズって契約しているわ」
閉店間際に乗り込んできた彼女は、責任者の篠宮にそう言った。歌手を雇うのはよくあることだ。しかし、彼女のことはボーイ達はおろか篠宮も初耳だった。
「失礼ですが…契約書か何かお持ちですか?」
柔らかに言った篠宮に、彼女はウエストの締まったパンツスーツのポケットに両手を突っ込んだまま、眼をくりくりさせて強気に笑った。
「お堅いマネージャーさんて、あなたのことね。…これよ…」
彼女は軽く手のひらを開いて見せた。そこに乗ったものが淡い光を弾いて緑色に光った。
篠宮は一瞬、眉を寄せたが丁寧に奥に進むように示した。彼女は再びそれをポケットに仕舞うと、彼女は声に従わずさっさとステージの方へ行ってしまう。
「マイクを頂戴。連中に曲を変えるように言って」
戸惑うボーイ達に視線で頷いて、篠宮はその場で成り行きを見守っていた。閉店前なので客も少ない。どんな結果になろうと、カフスボタンを渡したりする桂城の責任だ。エメラルドの玉の入った銀細工は桂城の愛用のものだ。受け取った彼女がどれほどの者なのか、それくらいの興味は篠宮にもあった。
ゆっくりとブルースが流れ始めると、彼女は片手をポケットに突っ込んだまま、ステージの中央で軽く目を伏せた。
それが五日前のことである。
彼女はその名の通り、八人の神がついているかのように我儘な姫だった。
「それであなたは、降りてきてしまったわけですか?」
「そうよ。気が乗らなくて歌えるとでも思っているの?」
「プロ意識ということで解釈しましょう。早急に治させますから戻ってください。私も社長もあなたの歌を楽しみにしているんですよ」
二人とも部屋に閉じこもっていたくせに、と彼女は不機嫌な顔を向けたがさっさと身を翻した。
コメント