歌言⑦

/歌言⑦

「あの癖…なくなりましたね」

 彼女はちょっと低く笑った。

「もとからないわ。もう、しないし。あなた…コーヒー入れるのうまい?」

 彼女はいきなり篠宮の耳元でそう囁いた。篠宮が答えずにいるともう一言付け足す。

「入れに来てくれない? 今夜」

 また、あの挑むような瞳。

 篠宮は目を閉じてゆっくりと頷いた。

 

  

  

 きつい風が深夜の港に吹いている。タクシーから降り立った彼女に、風が強く当たって行った。

 暗い埠頭に水銀灯が冷たい光を投げかけている。三つの大きなスーツケースをトランクから出し、車は去って行った。彼女は小さく息をつき、頭を上げた。暗い海がゆっくりとうねり、対岸の街は光の塊がきらめいて不夜城のように見える

「…お手伝いしましょうか?」

 声と、そしてゆっくりと近づいてくる足音。彼女は驚きに目を丸くして振り返った。

「…何故…ここに居るのよ」

 半ば低い悲鳴のように上げられた声に、篠宮は軽く微笑んだ。さるホテルのバーで落ち合う約束を彼女の方から申し出たのだ。

「あなたは来ないのに、待てと言うんですか? それはちょっと酷ですね」

 篠宮はスーツケースを両手に持つと、先に歩き始めた。視線のずっと先に大きな客船が横付けされている。フランス語の名を持つその船はこれから帰途につくはずだ。

 船につくまでの間を、二人はゆっくりと歩いた。彼女は呟くように言った。

「逃げるんじゃないわ。ただ、嫌になったの。私の歌は、自分の恋さえ語れない…伝わらない」

「……」

「だから、やり直すの」

「歌うことを?」

「そう。向こうへ行って始めから…」

 歌うような口調。切なげな視線。

 タラップに近づくと、船のボーイ達が気がついて、彼女の荷物を中に運び込んだ。彼女の手に残ったのは薔薇の花束だけ。

 歌姫はそれを、篠宮に突きつけた。

「…海に捨てようと思っていたのよ。でも…本来の相手に渡すことにするわ」

 きつい視線は変わらない。けれどうっすらと笑う。鮮やかにぬられたルージュが彼女の気性を物語る。見つめる相手を決めている男に恋を告白するほど、彼女のプライドは低くないらしい。

 篠宮はそれを受け取ったが、礼は言わなかった。彼はコートのポケットに手を入れて、そこからビロードの箱を取り出した。そして彼女の手に握らせる。

 白い手がそれを開けて一瞬止まる。沈黙の後の小さなため息。

「あなたの歌にとても魅せられましたから。…成功を祈っていますよ」

 真顔の彼女に、彼女は近寄ると少し背伸びをした。白い水銀灯の中のラブシーン。軽く唇を重ねるだけのキスをすると、彼女は身を翻してタラップを登った。そして振り向き様に捨てぜりふ。

「思いやりのある男なんて、大嫌いよ」

 そして彼女の背は船の中に消えていった。

 篠宮は港の風に吹かれながら、船がゆっくりと離岸するのを見ていた。思ったよりずっと早く、暗闇の中に消えていく。

 篠宮は自分が冷たい目をしているだろうと思った。

 

 

 パパーッ 不意の車のクラクション。もの思いに浸っていた篠宮は視線を巡らせた。いつからそこにいたのか、目に入ったのは黒い車。それに寄り掛かった桂城の姿。

「まるで映画のワンシーンだったな」

 呟いた桂城に、篠宮は手元の花束から一輪を抜き取ると、それを宙に放った。

「つ…」

 それを受け取った桂城が、ほんの少し眉を寄せる。薔薇の刺が彼の掌に突き刺さっていた。

 篠宮は真剣な瞳を桂城に向けて、一言だけ告げた。

「それが、貴方の取り分です」

 目の覚めるような鮮やかな黄色の薔薇。その塊を腕に抱いて、篠宮は車の助手席に乗った。車を発進させた桂城の横顔はいつもと変わらない。篠宮は目を閉じた。

 彼女が言わないなら、私も言わない。言葉に出されぬまま流されていく恋。彼女のお芝居を逆手に取ってそう仕向けたのは自分だ。歌言はあれほど切ない恋心を秘めていたというのに。

「その色はお前には似合わないな」

 そんなことは分かっている。だが、今夜は甘んじてその色を受ける。彼女の嫉妬の色。黄の薔薇の花言葉。思いやりのなどかけらもない自分への罰だ。

「歌姫は不本意だろうがな、その花は俺が引き受けてやるよ」

 何も言わない篠宮に、街の光を眺めながら桂城はそう言った。篠宮はゆっくりと瞳を動かせた。そして桂城を見据える。

「社長…知っていらしたんですか?」

「何を?」

 桂城はちょっと眉を上げて見せる。

 篠宮は小さくため息をついてシートに沈み込んだ。

 彼女が恋したのは本当は誰なのか。貴方が言わないなら、自分も何も言わない。彼女の歌を真に理解する人間がきっとどこかに居るだろう。

 ふと、思い出したように桂城の顔を見直す。

「…彼女が行くことは…何故…?」

「気になることもあるさ。俺も」

 自信家に似合わない、ちょっと気まずげな顔で桂城は笑った。

 

 

 

 彼女が聞いたら、まったくそれは不本意だと怒るかもしれないが、その意味ありげな花束は桂城の寝室に飾られた。篠宮はベッドに腹這いになったまま、それを眺めた。

 桂城は特注のカフスボタンが二つとも無くなったことに気がついているのだろうか。

 イヤリングに作りなおしたあれは彼女を飾るだろうか。人を恋する切なさは同じ。まして同じ相手ならば。

 ポケットの中でカフスを握りしめて歌った彼女の声が蘇る。共犯者の行く末を案じるような気持ちで、篠宮は彼女の幸せを祈った。

 薄いもやのかかったような夜の闇の中、ゆっくりと花びらは落ちていった。

                                         END

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