歌言⑤

歌言⑤

 そのことがあってから、歌姫は篠宮を探してはまとわりつき、篠宮も彼女の我儘を笑みながら聞いている光景がよく見られるようになった。

「うー。今日は化粧の乗りが悪いわ…」

 リハーサルの音合わせのためにハイヒールの音を響かせて舞台に上がった彼女の呟きを耳にして、篠宮はすれ違いざまに言う。

「綺麗ですよ。あなたは、いつも」

 彼女がにっこりと笑うのを眺めていると、背の高い男が後ろで不満げに言った。

「篠宮さんらしくないです。何だか…」

 篠宮は振り返ると、そのウエイターに軽い口調で言った。

「小笠原。いい子だから、そっぽ向いていなさい」

 

 

 閉店一時間前。桂城は裏口の非常階段を駆け登っていた。ふと、声が聞こえた。揉み合うような音。

「放してよ! あんたの顔なんて見たくもない!」

 紛れもない歌姫の声。いかにもチンピラぜんとした派手なプリントシャツを着た若い男が、彼女の腕を捕まえていた。

「そんな事言ってもいいのか? 昔の悪事、このお上品な店に…」

 パン! と小気味のいい音が夜の空気に響く。

「ざけんじゃないわよ! このチンピラが!」

 男が振り上げた拳は宙で止まった。後に立った桂城がその腕をぎりぎりとねじ上げると、男は何が起こったか分からないまま情けない叫び声を上げた。そして体を入れ換えると、その背を蹴り付ける。

「うわわ…」

 派手な音を立てて、そいつは下の踊り場まで転げ落ちた。

「ち…ちくしょう! 覚えてやがれ」

 向き直った男は桂城の体格を見て、慌てて尻尾を巻いて逃げていった。

「大丈夫か?」

 振り返ると気丈な歌姫は、唇を噛みしめて男が去っていった空間を睨み付けている。だが、その両手は桂城の背広の背中を握りしめていた。右手で軽く肩を抱いてやると、彼女はようやく息をついた。

「…来てくれたのがあなたで良かった…」

 彼女がどういう所で歌っていたのか桂城は知っている。気まぐれで立ち寄った場末の、誰も歌など聴いていないようなうるさい店で彼女は歌っていた。

「私ね…今の男にそそのかされて、店をゆすったことがあるのよ。…私を辞めさせる?」

 いつもの歯切れのいい口調。だが、声は悲しげに震えていた。もちろん桂城は知っている。だからそんな所でしか歌えなくなった。それでも歌を捨てなかった彼女の強さ。

「歌手の売り物は歌だろう? それ以外に問題になるものがあるのか?」

 彼女は手を放して桂城を見上げる。いつものきつい瞳を輝かせて。そして彼女は静かに目を伏せた。

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